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仏教聖地 巡礼の旅 釈尊をお慕いして

1500年の長きにわたり、現在まで日本人の宗教と文化の精神の中核を担ってきた仏教。
その開祖である釈尊(一説に紀元前463年−紀元前383年)がお生まれになり、悟りを開かれ、法を説かれ、入滅された地インド。
古くは「天竺」とよばれ憧れの地であった遠い国。現在では国際線でわずか9時間あまりの旅。
釈尊をお慕いして、その足跡を残す数々の巡礼の地には、世界各国から多くの巡礼者が訪れています。

≪釈尊の誕生≫
ルンビニ(生誕の地)=ネパール=

紀元前463年、約2500年前、現在のネパール・ルンビニ、ヒマラヤの南の麓付近、ローヒニー川の辺りで、シャカ族スッドータナ王(浄飯王)の待望の長子として誕生されました。
王都はネパール国境付近のカピヴァラストゥにありました。

※王妃マヤ。マヤ夫人はある夜、蓮の花を捧げ持った白い象が湖で沐浴をしている自分の右脇腹から胎内に入る夢を見ます。 そして懐妊。出産が近づき、実家へ戻る途中、休息のために立ち寄ったルンビニ園で、美しく咲き誇る樹木の枝に手を伸ばされたとき、右脇腹から釈尊が誕生されたといわれています。

天地は歓喜に震えこれを祝い、シッダルタ(目的を成就したという意味)と名付けられ、後に釈尊(ブッダ)となられました。生まれた直後、直立であるき「天上天下唯我独尊」と言われたと言い伝えられています。

●ルンビニ(生誕の地)=ネパール=
釈尊の誕生を祝い現わしている壁彫刻のあるマヤ夫人堂、釈尊が産湯を使われたという産湯の地が残っています。
また釈尊に帰依し、擁護していたアショカ王が建てたアショカ王柱には“ルンビニ村は釈尊の生誕の地であるために、租税を免除し、生産物の8分の1を納めるものとする”と刻まれています。

≪出家と成道≫

カピバラストゥ(幼少期を過ごされた地):シャカ族の首都
ブッダガヤ(成道の地)

シャカ族の長子として誕生し、母マヤ夫人を誕生7日目にして失い、母の妹のマハー・パジャーパティの手で育まれました。父の庇護のもと、季節にあわせて3つの宮殿で過ごし、ベナレス産の美しい衣をまとっていたといわれています。長じて結婚されラーフラという息子ももうけられました。

※後世の伝説ではシッダルタ王子が14歳の時に、東の城門を出ると老人を、南の城門をでると病人を、西の城門をでると屍を、そしてその帰りに出家修行者を見た(四門出遊)と説かれています。

人生の悲しみ、惨めさ、痛みと死を目の当たりにしたシッダルタ王子は、恵まれた生活や家庭、家族をもなげうって29歳でカピバラストゥを出家され、真の幸福と無情の知恵を求め、師を探し求め、当時の新興国であったマガダ国の中心部ラージギールに赴きました。静安な境地を求め、高名な修行僧に教えを乞うべく、アーラーラ仙人を、ウッダカ仙人を訪ね、ともに修行をされました。しかし、いずれの師からも求めるものは得ることができず、またブッダガヤ近郊にて6年にも及ぶ苦行も実りませんでした。釈尊を師と仰いで行を共にしていた5人の僧も、行についての食い違いから、釈尊のもとから離れてしまいました。釈迦尊は苦行を中止され、近くのナイランジャナ河(尼蓮禅河)で沐浴し、植物を摂ってブッダガヤ(ウルヴェーラ村)の菩提樹の下で禅定にはいられ、まもなく無上の悟りを開かれ、ブッダ(覚者)となられたのです。

●カピバラストゥ(幼少期を過ごされた地):シャカ族の首都
現在カピバラストゥの地は最終的に特定されておらず、2つの候補地があります。
ネパール側のカピバラストゥ候補はティラコート。
インド側のカピバラストゥ候補はピプラワーです。ピプラワーのストゥーパから、1898年に銘文入りの舎利壺が発見されました。近年、さらに古い年代の舎利壺とシーリングが発掘されています。約1.5q南のガンワリア遺跡が王宮跡ではないかとみられています。ルンビニはここからほぼ東へ14qのところにあります。

釈尊はシャカ一族の都で最も古い共和国のあったカピバラストゥで、裕福な少年時代を過ごしました。ここで釈尊は悲しみや痛みや病、死を目の当たりにされました。そして、すべての苦悩を克服し、幸福に燦然と輝くサドゥー(修行僧・聖者)を見たとき、恵まれた富や快楽、家族をすべて投げうって、真理を求める救いへの道へ旅立つ決心をされました。そして29歳のときに、父の制止を振り切り、妻子を残して求道の出家をされました。

カピバラストゥにはいつくかの仏塔(ストゥーパ)が残されており、釈尊の物であると思われる遺物が納められた石造りの棺などがいくつか発掘されています。

●ブッダガヤ(成道の地)
ブッダガヤ釈尊が菩提樹(アシュヴァッタ樹、悟り=ボーディ=を開かれたのがこのアシュヴァッタ樹の下であったので後に菩提樹と呼ばれるようになる)の下で禅定を修せられ、成道された地。仏教における最も重要な聖地です。その菩提樹と台座(金剛宝座)を祀るのが大菩提(マハボディ)寺です。
紀元前3世紀のアショカ王の頃に最初の祠堂が建てられ、現在の形となったのは4世紀以降です。

Bodhgaya東側の入り口から入ると西壁を背にした仏像があります。覚りの状態を示し、右手の人差し指を床につけていらっしゃいます。大塔の周りの欄楯柱は最も古く前1〜2世紀頃のものがあり、近くの考古博物館にも展示されています。

大菩提(マハボディ)寺はたくさんの異なった文化が造り出した建築様式の融合体ともいえます。拝殿はグプタ朝時代とその後の時代の建築の特徴を備え、寺院の壁には様々な様相をされた釈尊が彫られています。7世紀と10世紀にスリランカ、中国、ミャンマーからここを訪れた巡礼者の記録を刻んだ銘が残されています。7世紀には旅僧・玄奘三蔵法師もここを訪れています。

現在そびえている菩提樹(ピッパルの木)は、ついに悟りを開かれたときに達したときに座っていた菩提樹の子孫だといわれています。
また大菩提(マハボディ)寺の横には「宝石の歩道」と呼ばれ釈尊が深い考え事をするときに歩いたといわれるチャウクラマーナ(19個の蓮華が彫られた教行石の道)があります。悟りの境地に達せられた釈尊がその境地を人々に伝えるかどうかを迷われ、歩かれたその足跡に蓮華の花が咲いたという言い伝えを現しています。
大菩提樹の東には尼蓮禅河が流れています。対岸の前正覚山の山中で苦行されたとも伝えられています。日本をはじめ各国の寺院が周りに建てられています。

※大菩提(マハボディ)寺に隣接するシャイヴィーテ僧院には4つの寺院があり、周辺にはいくつかの記念石(サマディーズ)があります。僧院の向かいには僧侶の住居施設が多く並んでいます。近くのジャガンナート寺院はシヴァ神の寺院で黒石の石像が祀られています。考古学博物館には紀元前1世紀から後11世紀までの仏教彫刻が展示されています。複数のことなった様式の仏教美術は芸術表現の宝物殿といった感があります。

●ガヤ
ブッダガヤから12qのパルグ川の川岸にあるヒンディー教の聖地でもあり、プレトシラとラムシラの山々に挟まれています。ガヤには多くの仏教寺院が存在します。

※ナイランジャナ河(尼蓮禅河)の対岸にはスジャータの村セーナーがあります。厳しい苦行により衰弱し、疲れ果て、空腹の釈尊が木陰で休んでいる時、村娘スジャータが食べ物を勧めました。釈尊はこの一杯の乳粥の供養の申し出を受け入れたのです。言い伝えによると、食べ物を口にした釈尊の表情は神がかりてきな光と輝きを帯び、このとき「大切なのは極度の自己放縦でも苦行でもなく、中道をとることである」という至高の真理を悟られたと言われています。この出来事のシンボルとしてスジャータ・スターン(ドゥルゲシュワリ寺院)はいまもこの地にあり、当時を偲ばせる佇まいがあります。
その後、尼蓮禅河を渡り、菩提樹の下で7日間の瞑想の末、“成道”の境地まで達せられました。35歳のときのことと言われています。

≪説法≫

サルナート(初転法輪の地):ベナレス近郊 鹿野苑
ラージギール(常設説法の地):マガダ国の首都 霊鷲山や竹林精舎のあった王舎城(ラージギール)
ナーランダ:古代インドの仏教大学跡
サラバスティ(常住の地):コーサラ国の首都 祇園精舎(サヘット)のあった舎衛城(サラバスティ・マヘット)
ヴァイシャリ(猿王奉密の地):リッチャヴィ族の首都
カウシャンビー(悟りから6・9年目に訪れた地):ヴァツァ国の首都 ゴーシタ園などがあった

※言い伝えでは、釈尊は最初に法を説く相手として、かつての師、アーラーラ仙人とウッダカ仙人をお考えになられましたが、すでに他界していると神に告げられ、ブッダガヤでともに修行に励んだ5人の僧を訪ねてサルナートへ向かわれたといわれています。

ベナレスは当時から歴史の古い都で、聖地として広く知られ、さまざまな出家修行者の集まる最大の場所でした。郊外のサルナートは仙人達の集うところとなっていました。
その北郊(鹿野苑)サルナートで、釈尊は無上の法を始めてお説きになりました。これが初転法輪で、仏教教団の始まりとなります。
以降45年間、釈尊は王舎城、舎衛城など各地で多くの人々に自ら悟った真理の法を説かれました。弟子たちに終わりなく繰り返される生と再生の苦悩に終止符を打つべく、八正道に従うようにと説かれました。

●サルナート(初転法輪の地):ベナレス近郊 鹿野苑
サルナートブッダガヤで悟りを開かれた釈尊はその真理を人々に伝えるためサルナートへ向かわれました。
聖地ベナレスから約10qにあるサルナートは、初転法輪の地といわれ、仏教教団の発祥を記念する重要な聖地です。
以前釈尊に師事していた5人の高弟たちは、彼らを説得し、初転法輪(ダーラマチャクラ・プラヴァルタン)と呼ばれる初めての説法をする釈尊の魅力あふれる輝いた表情に驚かされます。これが仏教の偉大な伝統“サンガ(僧)”の始まりと言われています。
この時説いた法はブッダガヤでの悟りの内容とほぼ同じであったといわれ、後に教理体系として整理して記された教典では、それを中道・四種の真理・八正道にまとめられています。

※中道とは欲楽に耽る極端にも、苦行をして自分を苦しめる極端にも近付かないこと。四種の真理とは、生・老・病・死は苦(第一)であり、いろいろな欲楽を求める妄執が苦を起こさせる原因であり(第二)、その妄執を完全に止滅すれば苦しみを
止滅でき(第三)、苦しみを止滅するには、八正道、正しい見解、正しい思惟、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想を実践すること(第四)というものだとされています。

釈尊と5人の高弟たちは、ベナレスの長者の子ヤスとその友人54人とともに最初のサンガを形成されました。

※ヤスは多くの侍女にかしずかれ歓楽の生活を送っていましたが、あるとき嫌気がさし、サルナートへ向かう途中、釈尊と出会われます。説法をきいて出家したヤス連れ戻しにきたヤスの両親と妻もまた信者となり、ヤスの友人で長者の子4人と良家の子50人もヤスにならって出家されました。

有名なマントラ(真言)に最初にある“ブッダム・シャルナム・ガッチャーミ(仏に帰依し奉る)”という言葉は、サルナートを端緒としています。「仏(ブッダ)に帰依し、法(ブッダの教え)に帰依し、僧(サンガ)に帰依する」と書き記された三宝は、現在も変わらずにサルナートにあります。

サルナートには静謐で美しい遺跡公園と博物館があります。アショカ王時代から12世紀にいたる数々のストゥーパや僧院跡が点在しています。二重円筒形の巨大なダーマク塔は、6世紀頃に増広されたストゥーパです。
ダーマク塔は釈尊が座して真理を説かれた場所として伝えられています。周囲36mで、34mの高さがあり台座も入れると42mまで達します。他にもいつくかのストゥーパがあります。
公園の東側には、スリランカの仏教徒によって建てられたムラガンダ・クティ寺院があります。内部にある野生司香雪画伯の釈尊の一生を描いた仏教画で有名です。
ここは、釈尊が休息をとったり、瞑想をしたりした場所であるといわれています。玄奘三蔵法師(602年-664年 中国唐時代の訳経僧)も訪れています。

インドの至宝、初転法輪像、アショカ王柱頭(4頭の獅子の像)を展示する考古学博物館もあります。アショカ王(紀元前273-232年)は、戦いの後、仏教に帰依し、サルナートを訪れました。アショカ王柱が王の来訪記念として建てられ、サルナートの仏教教団の基礎を築かれました。アショカ王柱頭は現在インドの国章となっています。2千年以上もの時を超えたとも思えないほどの光沢を放っています。

その南880mにはチャウカンディ・ストゥーパ(迎仏塔)があり、かつて苦行をともにした五人の修行者が釈尊を出迎えた場所といわれています。4−6世紀のグプタ朝時代には広く段々になった寺院でしたが、1588年に時の為政者アクバル大帝の父フマユーンの来訪を記念して八角形の塔が建てられました。またアクバル大帝も1555年にチャウカーンディ・ストゥーパを建てています。

※サルナートで初の説法をされた釈尊は弟子たちをつれて、ブッダガヤにもどります。ブッダガヤで新たな弟子が釈尊の門に入りました。ガヤ近くのガヤー・シーサ(象頭山)において、ブッダガヤで悟りを開かれた釈尊は、新たに信者となった1000人もの弟子をつれ、「すべては貪欲・嫌悪・迷いの火によって燃えている。貪欲から離れれば解脱できる」と説いて、修行僧たちを煩悩から救ったといわれています。
その後、ラージギールに向かわれました。

●ラージギール(常設説法の地):マガダ国の首都 
  霊鷲山や竹林精舎のあった王舎城(ラージギール)

釈尊在世当時のマガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)。現在はラージギールと呼ばれ、五つの山に囲まれた要塞堅固な盆地です。
東南の面には有名な霊鷲山(グリッダクータ山)があり、頂上には、晩年の釈尊が起居されたという岩窟やたくさんの説法をされたという場所があります。法華経を始め、大無量寿教、観無量寿教など、その教えが初めて書面に記録されたと言われる場所です。
仏教徒であったマガダ国の国王ビンサーラは晩年、息子のアジャータシャトル王に幽閉し殺害されますがその牢獄跡も残っています。ビンサーラ王はここから霊鷲山に入る釈尊の姿を見たといわれています。

※岩山のひとつラトナギリ山(多宝山)には日本山妙法寺がたてたストゥーパがあります。
岩山のひとつパンダヴァ山(白善山)には釈尊がカピヴァラストゥを出られてから最初に修行を始められたところと言われています。

旧都の北門付近にはビンサーラ王により寄進され、カランダ長者が釈尊のために建てた、竹林精舎跡(ヴェヌヴァン僧房)があります。サラバスティの祇園精舎(サヘット)と並び、仏教史上初めての寺院としても知られています。
また、治癒力があるといわれているサプトゥダーラの温泉、釈尊が沐浴されたカランダ池など釈尊ゆかりの遺跡や、釈尊涅槃の後、最初の仏教徒会議(第一結集)の行われた七葉窟(ピッパラ窟)(ヴェバーラ山・負重山にあります)や釈尊の入滅(大涅槃)を描いた彫刻が残るアジャータシャトル王の新王舎城があります。
旧王舎城内には、釈尊の熱心な弟子であり外科医でもあったシーヴァカの住居があったシーヴァカ果樹園跡、ビンサーラ王の牢獄跡などがあります。

※マガダ国の首都ラージギールの竹林精舎で多くの弟子たちとともに修行に励み、法を説かれていた釈尊は故郷のカピバラストゥに一時、帰られます。このとき久方ぶりに父王スッドータナ王(浄飯王)と妻子に出会います。この時、異母兄弟のナンダ、息子のラーフラ、従兄のアーナンダをはじめとするシャカ族500名が出家したといわれ、父と釈尊妃は在家信者として帰依することとなりました。この後、コーサカ国のサラバスティに向かわれます。コーサカ国のパセーナディ王は釈尊と同年齢だったこともあり、友人として親しい間柄となられます。スダッタ長者も釈尊の崇高な姿にうたれ帰依し、祇園精舎を寄進します。以来、マガダ国(ラージギール)とコーサカ国(サラバスティ)をたびたび往来されたといわれています。王族はもちろんのこと、漁師や盗賊たちにまでも法をとき、帰依させていかれました。

●ナーランダ:古代インドの仏教大学跡
ナーランダ釈尊の高弟シャーリプトラ(舎利弗)の生誕の地といわれ、釈尊も何度か訪れたことがあると、ある文献に記されています。
ナーランダには“蓮を授ける地”という意味があります。
5世紀に創建されてから12世紀にイスラム教徒に破壊されるまで、全アジアの仏教研究・教学の中心地でした。
玄奘法師が滞在された7世紀の往時には9百万の書物、1万人の学僧、2千人の導師を擁、ここに居住していたと言われています。
11の僧院跡と14の寺院跡があります。アショカ王はこの地に僧院を建て、後のハルシュヴァルダン王は26mもの釈尊銅像を寄進し、グプタ王は美術大学を開いたと言われています。
1951年には国際仏教研究センターが創立され、近郊にはナヴァ・ナーランダ・ヴィハールという仏教研究施設もあります。

●サラバスティ(常住の地):コーサラ国の首都 
 祇園精舎のあった舎衛城(サラバスティ) サヘット・マヘット

スラヴァスティ神話にでてくるサラヴァスト王によって築かれたと伝えられるサラバスティは古い僧院、寺院などがあります。
祇園精舎は仏説阿弥陀経が説かれた場所とされ、コーサラ国の都サラバスティ(舎衛城)のスダッタ長者(給狐独長者)がジェータ(祇多)太子の園林(ジェトヴァナ庭園)を買い、釈尊に寄進した精舎です。

土地の所有者であったジェータ太子は「金貨を敷き詰めた場所だけ譲る」と冗談を言われましたが、スダッタ長者は本当に金貨を敷き詰め始めます。驚いたジェータ太子が訳を聞き、自らも協力をすると申し出され、祇園精舎が出来上がったと言われています。

ここで釈尊は、35歳で悟りを開かれ80歳で入滅されるまでの間、24回の雨季(雨安居:安居とはそれまで個々に活動していた僧侶たちが、一定期間、一カ所に集まって集団で修行すること、またはその期間のことをいいます。)を過ごされ、多くの経・法を説かれました。祇園精舎跡(サヘット)は釈尊が説法されたと伝えられる台座や後の代の多くの僧院跡が残されています。
その北東約500mのところにある、城壁に囲まれた一帯が舎衛城(サラバスティ)でマヘットと呼ばれています。釈尊の高弟であったアーナンダが植えたもののひとつとされる有名なアーナンダの菩提樹があります。

※雨安居入りは暦の上で雨期の始まりの日。釈尊とその弟子たちは、自らの修行と在家者への教えのために、一定の場所にとどまることはありませんでしたが、雨によって川があふれて一面が水浸しとなる雨期に限り、1カ所に定住されました。田畑と道の境が分からなくなって稲、作物、水の中の虫を踏み潰すなどの「業」を犯さないためだと言われています。

釈尊の入滅後も精舎は拡大されていきました。404年に法顕(337-422年 中国東晋時代の僧侶)が訪れた時には98伽藍があったと伝えられていますが、後の630年に玄奘が訪れた際には荒廃が見られ、さらに後、義浄(635-713年 中国。唐時代の僧侶)が訪れた際には再興されている最中であったとされています。
アングリマーラの帰依、舎衛城の神変など様々な逸話も残ります。

※アングリマーラの帰依:コーサラ国のサラバスティ(舎衛城)の祇園精舎に滞在されていた釈尊は托鉢ででかけられました。その頃、コーサラ国パセーナディ王の領地にアングリラーマという極賊がいました。命を奪い盗賊を働いていました。托鉢に出かけられた釈尊はそのアングリラーマが入っていった道を進みます。釈尊とであったアングリラーマは釈尊から法を説かれ、感激し、釈尊に帰依されます。パセーナディ王は今まさに討伐しようとでかけていたところ釈尊に帰依した侍者としてのアングリラーマと出会い、帰依したのであれば、討伐しない旨をお伝えになられます。アングリラーマは人々から今までの行いの報いを受けますが、瞑想に入られ解脱の安らぎを得られます。

●ヴァイシャリ(猿王奉密の地):リッチャヴィ族の首都 
 ヴァイシャリ・パトナ(パータリプトラ)

ヴァイシャリ紀元前6世紀には選挙によって選ばれた代表達が統治をおこなった世界最初の共和国といわれるヴァイシャリ。
かつての国会議事堂(ラージャ・ヴィシャル・カ・ガール)も発掘されています。

釈尊在世当時、ガンダキ河畔にあり商業都市として栄えました。釈尊はしばしばこの地を訪れ、逗留されました。そして、釈尊が現世からの旅立ちが近づいたことを示唆する説法を始めて行われました。後にアショカ王が釈尊の最期の説法を記念し、アショカ王石柱を立てました。その傍らに猿の掘った池(ラーマ・クンド)などをみることができます。

また、ヴァイシャリでは、釈尊入滅から100年後(紀元前377年)に第2回目の仏教徒会議(第ニ結集)が開催され、ヴィナヤ(律蔵)の10の要点が討議されたと言われています。

華麗なダンサーでもあり娼婦でもあったアマラパーリはマンゴー園を寄進し、後に釈尊の教えに帰依し尼僧になりました。身分によるわけへだてのなく万人に法を説いた釈尊のお姿がここにあります。釈尊の姿にうたれた猿の群れ(猿王)が釈尊の托鉢にマンゴーの蜜を取り奉げたことなどでも有名な地です。
旧都城跡やマウリヤ時代以前に起源をもつ、棺に釈尊の遺骨の一部が納められた紀元前4世紀頃のレンガ造りの第一、第二仏舎利塔(ストゥーパ)など発掘されています。

※パトナ(古代パータリプトラ):インド史上はじめての統一国家を建設したマウリヤ王朝初代チャンドラ・グプタ王はここに都をおきました。仏教を保護し、徳(ダルマ)による政治を行ったマウリヤ王朝三代目アショカ王(紀元前3世紀)時代には、近隣諸国と友好関係を築きあげ、古代アジアの文化や政治・経済の一大中心として栄えました。
パトナ市内のアショカ王時代の宮殿跡のクムラハル(鶏園寺)は、大蔵教の基礎となる経・律・論を結集した第三結集(紀元前244年)が開催された地としても知られています。

●カウシャンビー(悟りから6・9年目に訪れた地):ヴァツァ国の首都
釈尊が悟りを開かれてから6年目と9年目に訪れた地と言われ、釈尊はここで数回の説法を行い、仏教修道の中心地に位置付けられていたそうです。ゴーシタ園などがありました。遺跡からは多数の彫刻や像、貨幣などが発見されています。重要な遺物はアラハバード博物館に展示されています。

≪入滅≫

クシナガラ(入滅の地):マッラ族の首都

釈尊は、侍者アーナンダ一人を伴って王舎城(ラージギール・霊鷲山)から最後の説法の旅に出発されました。
ナーランダー、パータリ村、ヴァイシャリを経て、その後、クシナガラ近くのパーヴァー村の鍛冶工チュンダのもとで雨期を過ごされたとき、重い病となられましたが、その後も旅を続けられました。おそらく、郷里のカピバラストゥに向っていたのではないかと言われています。しかし、クシナガラ郊外にお着きになられたとき、二本のサーラ樹(沙羅双樹)の間に横たわられ、ついに80歳で涅槃に入られました。
後世の人々はこれを祀った塔(ストゥーパ)を各地に建てて釈尊を思い偲び敬いました。

●クシナガラ(入滅の地):マッラ族の首都
クシナガル釈尊が侍者アーナンダにみとられて、沙羅双樹の間に横たわられて入滅されたのがこの地クシナガラです。
クシナガラに近いパーヴァという村で、鍛冶屋チェンダの家で法を説かれ、供養を受けます。その時出された食事はキノコ料理とも豚肉料理とも言われていますが、食された後、激しい下痢に襲われます。その後も、その痛みに耐えながらクシナガラへ向かわれた釈尊は死期が近いことを悟られます。そしてついに二本の沙羅の樹の間に横たわられました。

釈尊は「私の友たちよ。よくお聞きなさい。形のあるものは必ず滅すのです。怠ることなく修行に努めなさい。」との言葉を残されました。アーナンダから捧げられた最後の水を飲まれた後、頭を北向きに西を向いて伏せられた釈尊は、この地で生涯を終えられ涅槃に入られました。

※釈尊は鍛冶工チェンダが釈尊にキノコ料理を供養したことを悔いて悩んでいるのではないかと気づかわれ、
嘆き悲しむ高弟アーナンダには最後の法をとかれ、静かに息を引き取られたといわれています。

これを偲び記念して、「釈尊がこの地で入滅された」という内容が記された銅板が発見された塔跡に、ビルマの仏教徒が涅槃堂を建てられました。涅槃堂の前には二本のサーラの若木が植えられています。涅槃堂の中には、巨大な涅槃像が安置されています。1876年に寺院で発掘されたこの巨大な涅槃像は、5世紀にグプタ王朝時代に仏教徒によりマトゥーラ(アグラの北に位置する都市)から運ばれたものといわれています。他にもグプタ王朝時代などにたてられた僧院跡など多くの遺跡があります。

その昔、玄奘三蔵法師などもクシナガラを訪れています。そして、その頃には十分な保護を受けていなかったクシナガラの地の記述書が残されました。その記述書は数世紀後の遺跡発掘調査の際の重要な手掛かりとなったといわれています。
10世紀の釈尊の青岩像を祀ったマタクンワール寺院などがあります。

釈尊の遺骸はクシナガラから約1q東アンガラ・チャイチャというところで荼毘に付され、その遺骨が八等分されたといわれています。現在、荼毘に付された場所にはタマバル塚が残されています。高さ46mの煉瓦積みの仏塔です。
ヒラニヤヴァティ河はラマバル塚の北西にあり、釈尊が最後の沐浴をされた場所と言われています。

 

≪三道宝階降下の伝承≫

●サンカシャ(三道宝階降下の伝承の地)
ブッダガヤにおいて悟りを開かれた釈尊は、生後7日目に死別した天上界にいらっしゃる母マヤ夫人に無上の法を説かれることを念願されます。
ある時、祇園精舎(サヘット)を訪れていた釈尊は、祇園精舎の香室より昇天され三十三天(トウリテン)に赴き3ヶ月間、マヤ夫人に法を説かれ、報恩を果たされました。その後、三道の宝階をくだって再び地上界のこの地に降下されたと伝えられています。降下される時、三つの階段が築かれ中央の金の階段を釈尊が通られ、右側の白金の階段をブラフマ神(梵天)が白い払子(ホッス)を手にして降下され、左側の瑠璃の階段をインドラ神(帝釈天)が天蓋を釈尊にかざして、多くの天人たちを従えて降下されたと言われています。

サンカシャはかつて多くの僧院を持つ都城でした。現在は、アショカ王石柱の柱頭、大ストゥーパ跡などをみることができます。

※釈尊の時代からすでに2500年にも及ぶ月日が流れ、仏教に帰依し篤く保護をしたアショカ王の時代からもすでに2200年もの長い年月が経っています。
その間にインドでも様々な事柄がおこりました。寺院・僧院など仏教の建物は荒廃し、破壊されたものも少なくありません。
往時を偲ばせる遺跡は建物の柱や遺構などで、出土品や発掘跡の状況と古文献を照合して復元されたものも多くあります。近年になりインドはもとより諸仏教国の協力により遺跡の発掘・研究や調査が進められています。
いま現在、形としてのこる遺跡だけをみると何もないような印象しか受けられないこともあるかもしれません。長い時をこえて、その豊かな心で見て、感じとるとき、仏跡は多くを語り始めます。釈尊の説かれたことを収めた書を携え、ゆかりの地でひもとかれ、静かに釈尊の言葉に耳をかたむけられ、過ごされてみてはいかがでしょうか。そのとき、遺跡は時空を超え、往時を蘇らせてくれることでしょう。